震災の記憶とはなんだろう(4)
(前回の続き)
個人的な震災の記憶を整理する4回目。
先週で、2016年の熊本地震から5年。
熊本で思い出すのは、東日本大震災があった年の2011年の12月の熊本出張だ。当時は、東北ではまだ震災の傷跡が生々しく、震災は現在進行形だった。しかし、熊本で会った人々には既に過去のものだった。東北からはるか西に離れた九州では、地震の揺れを感じることもなく、原発停止以外の直接の影響もなく、テレビの映像しか記憶に残らなかったのだろう。
実際、熊本地震が発生した時、現地は東日本大震災のときのように救援物資やボランティアの受け入れで混乱し、震災の教訓は生かされていなかったように感じた。
年が明けて2012年になっても、2、3ヶ月に一回の割合でボランティアを続けた。
2月の遠野は氷点下10度を下回ることも少なくない。広間に雑魚寝のボラセンは寒さが厳しいと聞いていたが、冬用シュラフとボランティアの熱気で暖かかった。
被災地は、見渡す限りの荒野であることは変わりない。でもぼちぼち復興の芽が見られた。
がれきを撤去した跡地に、仮設の商店街が建ち始めた。
大槌復興食堂の「ガッツラ丼」500円。甘辛い肉がボリューム満点。
遠野で開かれたイベント「魂呼ばり」。被災地の文化を伝えるイベントも開かれるようになった。
ボラセンでの一日の終わりによく飲んだな~。酔仙酒造の濁り酒「雪っこ」。
酔仙酒造は、酒蔵を津波に跡形もなく流されてしまった。その映像がしばしばテレビでながされ、酔仙のファンは、もう酔仙の酒が飲めないのか、とため息をついたものだ。しかし、酔仙は近隣の酒蔵の支援を受け、半年後には新酒の出荷を始めた。
酔仙の新酒は品薄で東京では手に入らず、岩手に行くたびに買って帰ってきた。
雪の釜石市市街。震災から1年近くたつが、建物はそのまま。
大槌町のがれき置き場。積み重ねられたがれきが発熱して、湯気が立っている。
がれきの処分はなかなか進んでいなかった。放射能の危険性を理由に、償却の受け入れを拒む自治体もあった。
東日本大震災は、地震という天災と、原発事故という人災の二重の災害だった。
大槌町を見下ろす高台から。ここから撮った津波の映像は、なんどもテレビで流された。
住宅の基礎の掘り起こし、清掃は未だ続けれていた。
ボランティアは、ボラセンのビブス(ゼッケンみたいなやつ)を身につけることになっていた。
ビブスをしていると、地元の人々から「ありがと~」とか、「がんばって!」とか声をかけられる。こちらも笑顔で「こんにちは!」と挨拶を返す。地元の人々に声をかけられると、素直にうれしい。
ところが、帰京して、「私は無理だけど、ボランティア頑張って!」とか言われると、ちょっと腹が立つ。ジミー大西のギャグを思い出す。
「お前もがんばれよ」
ジミー大西は天才だな。
これ以来、「がんばれ」という言葉は使わないようにしている。状況によっては、これほど他人事で無責任な言葉はない。
震災からちょうど1年の2012年3月11日は、台湾旅行。
官民合わせて250億円という突出した義援金を送ってくれた台湾。その台湾を訪れるときに、日台友好を表現したTシャツを着ることが、台湾好きの間でちょっとはやっていた。
私もTシャツを作って着て行ったが、誰にも気づかれなかった。それどころか台湾人に間違えられること多数...
3月18日には、唐桑の復興に携わった人々への感謝として唐桑復興祭が開かれた。神奈川災害ボランティアネットワークのバスツアーで参加。
卸値で1つ数百円すると言う超高級牡蠣を食べさせてくれると言う。ボラセンからは、高価なもので漁師さんの収入源でもあるので、食べていいのはひとり1つまでと注意を受けていた。
ところが行ってみると、漁師さんが大量の牡蠣とホタテをガンガン焼いてくれて、ほら食べろ、ボケっとしてない次はこれ食べろと、鬼のように勧めてくれる。結局5個くらい食べた。
後にも先にもこれほどうまい牡蠣とホタテを食べたことがない。他の牡蠣を食べてもあまりおいしいと感じなくなってしまった。
ボランティアに行くと、必ず銘菓「かもめの玉子」を買って帰ってきて、職場で配った。ボランティアは一年を通して行っていたので、季節限定バージョンにもであった。これは苺だったかな。
5月になり再びボランティアに参加した。
大槌町、変わったこと変わらないこと~遠野まごころネットその5(1)
印象に残ったのは、復興が進まない街の姿。
ボランティアの募集も、以前のような、大人数でバスを連ねてのがれき撤去などはなくなっていた。農地や花壇の整備や、地元の方々との交流会など、少人数の多様な活動が行われていた。
私は、つらい経験をした方々とどう接したらよいか分からなかったので、もっぱらガテン系に応募した。
陸前高田に種まきに。海水をかぶった農地の土壌改良のために、がれきを撤去した土地に、菜の花やヒマワリなどの種が蒔かれた。
この時は、九州からバスでボランティアに参加した学生たちがいて、若い人はすごいな~、未来は明るいな~、と感じた。
箱崎の漁港の清掃に向かう途中、校庭にがれきが山積みになった学校の横を通る。3階の校舎の窓には自動車が突き刺さっている。これが「釜石の奇跡」と言われた鵜住居小学校だ。
ボランティアの拠点となった旧箱崎小学校。入口に○×の印がつけられている。これは、釜石市内の建物に見られた印で、津波のあと救助で建物に入り遺体を発見した場合には、のちに収容できるようにつけられるものだ。でもこの小学校は、震災当時廃校だったはず。なんで印がつけられているかはわからない。
この5月のボランティアが最後の震災の記憶だ。これ以降、私には震災の記憶はない。
震災から10年を迎えて、記憶の風化が叫ばれる。
しかし、震災当時の私のブログを見ると、震災から半年くらいから記憶の風化が問題だと書かれている。
振り返ってみれば、震災の記憶が風化したのではなく、そもそも、震災を実際に体験していない人には、記憶自体がほとんどなかったのだと思う。月日が経つにつれ、記憶を持つ人と持たない人の認識のギャップが広がっているのが事実だろう。
震災に限らないが、困難を体験した人の記憶を、体験していない人がいかに自分のこととして共有できるか、それは永遠の課題だと思う。
コロナ禍に見舞われている今、またそれが問われているような気がする。
(震災の記憶とは何だろう・完)
赤星山もおといこさんも地元で親しまれている山のようですね。調べてみたら行ってみた…