震災の記憶とはなんだろう(3)


前回の続き)

前回の記事からだいぶ日があいてしまった。今日は4月11日、震災から10年とひと月だ。
先月は、テレビでは毎日のように震災をテーマにした番組が放送されていたが、今ではすっかり「震災」という言葉を聞くこともなくなった。来年の3月まで、あるいは大きな地震が起こるまで、「震災」の記憶は眠りにつくのだろう。

前回まで、私の狭い意味での「震災の記憶」、つまり震災当日と直後の記憶を書き連ねた。しかし、広い意味での「震災の記憶」、それは「被災地の記憶」とも言える、はそのあと始まる。私にとって震災の記憶の9割くらいがこの「被災地の記憶」だ。

震災の日からひと月ほどたつと、被災地でのボランティア活動が多く伝えられるようになってきた。私もなにかできることはないかと考えていた。
しかし同じころ、勤め先の社内ポータルサイトに、ボランティア参加禁止の社長のメッセージが掲載された。要は、工場が被災したので、ボランティアに行くくらいなら仕事しろ、ということだった。
これが従業員ウン万人の大企業の社会的責任か、と呆れたが、私はしがない社畜なので、とりあえず様子をうかがうことにした。仕事のほうは、工場が被災したために、設計関係の私は、逆にいつもより仕事が減るありさまだった。

とりあえず、何かしなきゃと思ったので、自分としてはかなり思い切って、被災した県に5万円とか10万円とか義援金を送った記憶がある。100円や1000円ではぜんぜん足りないと思ったのだ。

6月に入ると、私の周りでは震災の話題も少なくなってきた。もう大丈夫だろうと思い、ボランティアに参加することにした。
ボランティア保険の加入や安全靴の購入など、ボランティアの準備は初めてのことばかりだった。

6月24日に、ボランティアセンター、通称「ボラセン」のある岩手県遠野市に夜行バスで向かった。詳細は以下にある。

災害ボランティア参加~遠野まごころネット(1)

遠野市ボランティアセンターに集合

はじめての災害ボランティア参加。参加者は、装備を携えボランティアセンターの前に集まり、目的地ごとに分けられる。40分くらいだっただろうか、元自衛官から災害支援活動についての数々の注意を受ける。被災地には、さまざまな危険があることを言い聞かせられる。
参加者の間には、異様な緊張感が漂っていた。

6月の陸前高田市

遠野のボラセンから作業場所の陸前高田まで、ボラセンがチャーターしたバスで向かう。
丘一つ越えると、突然、眼下に海を背景にした陸前高田の市街が広がる。
その瞬間、バスに乗っていたボランティアみんなが同時に息をのんだ、そんな感じだった。私には、原爆投下直後の広島の写真とかぶって見えた。

ボランティアの写真撮影は、許可された場所以外、原則禁止されていた。だから被災地の姿はほとんど私の記憶の中にある。
はじめてのボランティアで忘れらない記憶がいくつかある。

津波に流された車が、ぐちゃぐちゃに潰れたりちぎれていたこと。上半分がなくなって転がっているバスもあった。こういう映像はテレビではうつされていなかった気がする。

まるで巨人がつかんで放り投げたかのように、高架道路が橋脚と離れた場所に転がっていたこと。

室堂の雪の壁のように、道路の両側に巨大ながれきの壁ができていたこと。

ボランティアが撤去するがれきを、まず警察が棒でついて調べ、そのあとボランティアが作業にかかったこと。

防塵マスク(津波の運んできたヘドロには有害物質が含まれている)が息苦しく、みんなマスクを少しずらして息をつくので、マスクが黒く汚れていたこと。

がれきを動かしたときに立ちのぼる、うっとなる腐臭に皆ひるんだこと。

倒壊した家屋のがれきは釘だらけで、なんでこんなに釘を使うんだ、と思ったこと。
鉄の中敷きの入った安全靴を履いていが、釘を足に刺して負傷する人がいた。破傷風感染の危険があるので病院直行である。

高台から見た市の北側の風景。南側と違って、がれきの撤去が進んでおらず、当時を思わせる恐ろしい景色が広がっていた。ここに住む人は、毎日これを見て暮らしているのか...と思った。
この景色はしばらく脳裏からはなれず、湘南だろうが房総だろうが、海を見るたびに目の前によみがえってきた。

9月末、再びボランティアに向かう。震災から半年しかたっていないが、当時のブログには、震災の記憶が薄れつつあると書いてある。今から思えば、震災の記憶が薄れたのではなく、そもそもほとんどの人にとって、震災の記憶そのものが希薄だったのだろう。

釜石市へ~遠野まごころネット再び(1)

よこた川の駅のかつての陸前高田の写真

再び、遠野から陸前高田に向かう。途中、休憩した「川の駅よこた」には、かつての陸前高田の写真が展示されていた。ここに「写真のカメラ撮影OKです」と書かれている。

陸前高田の学校の校庭

がれき撤去、と言ってもこの時点では、がれきの処理が進んでおらず、校庭などに山積みにして保管している状態だった。

遠野ボランティアセンター玄関

被災地からボラセンに戻ると、装備をきれいに洗って玄関前に置く。長靴についたヘドロには有害物質や破傷風菌などの病原菌が付着している可能性がある。

10月には3回目のボランティア参加。

なぜボランティアに行くの?~遠野まごころネットMission3(1)

10月の大槌町中心部

大槌町の中心部は、津波に加え火災にも見舞われた。がれきの撤去は進んでいるが、それ以外のものは、なにも進んでいないように見える。

農地のがれきの撤去

この頃のボランティアの作業はがれきの撤去がメイン。でもがれき撤去も色々ある。これは、農地だったところを掘り起こし、コンクリート片や釘を一つ一つ除去しているところ。この作業をしないと耕運機がかけられない。

遠野ボラセンの宿泊所

ボラセンのある遠野総合福祉センターの体育館。ボランティアの宿泊所になっている。
ボランティアは、ここで寝袋で寝泊まりする。食事は近所の飲食店に行くか、設置されている電子レンジで自炊。シャワーは仮設シャワーを予約して使う。
ここに泊るボランティアの年代は2極化していて、学生と定年退職後の方が多く、私のようなサラリーマンはほとんどいなかった。私は大体、2、3泊だったが、1ヶ月以上寝泊まりしている人もいた。仕事がないとか、家に帰りたくない、という人もいたようだった。

社務所の基礎の掘り起こし

社務所の基礎の掘り起こし。
がれきの撤去と、住宅の基礎の掘り起こしが2大作業だったように思う。木造住宅は建物は津波に流されて、コンクリートの基礎だけが残る。その基礎は津波に運ばれたヘドロで埋まっているので、それを遺跡の発掘のごとく掘り出すのだ。この社務所の基礎も厚さ40cm以上のヘドロに覆われていた。

住宅の基礎は、やがて重機で破壊され更地にされてしまう。それなのに、膨大な数のボランティアを使って掘り起こし、きれいに清掃することに意味があるのかとの議論もあった。
しかし、きれいになった基礎に花と線香を手向け、手を合わせる人々を見ると、十分に意味があり、すべきことであると思った。

ボラセンの掲示板

ボランティアの参加者もだいぶ少なくなっていた。前回は、指示された作業場所ごとに行列を作ってバスに乗り込む、といった感じだったが、今回は希望する場所をホワイトボードに記入して予約する、というシステムになっていた。

水産物の倉庫の跡

水産物の倉庫跡のがれきの撤去。
ここには大きな水産物の倉庫が建っていた。震災直後、膨大なサンマがぶちまけられ、その回収撤去に大変苦労したと聞いた。倉庫跡のがれき撤去は終わっていたが、隣接する林の中は手つかずなので、林の中でがれきを拾う。
震災から半年以上たつが、未だに腐臭が漂い、蛆が隙間なくうにょうにょと動き回るサンマが土から顔をのぞかせていた。

大槌町の海岸

再び大槌町。穏やかな海。左手に見えるのは「ひょっこりひょうたん島」のモデル「蓬莱島」。震災前は防波堤で陸続きだったが、防波堤は津波で流されてしまった。

被災地では多数のボランティア団体が活動していた。前回3回は、「遠野まごころネット」に参加して活動したが、4回目は、神奈川災害ボランティアの日帰りバスツアーに参加した。

宮城県の唐桑に向かう。途中、気仙沼で陸に上げられた巨大な船を見る。

唐桑の牡蠣漁師支援

唐桑では、牡蠣棚へ牡蠣の稚貝を取り付ける作業を行う。たぶんボランティアをしていなければ、一生することもなかった貴重な経験。
牡蠣漁師のおかーちゃんがニコニコと教えてくれる。お昼に頂いた取立てワカメのしゃぶしゃぶが絶品。
作業が終わり、おかーちゃんの話を聞く。ずっとニコニコしていたおかーちゃんが、涙声で震災当日の話を語った。

次回に続く)

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