震災の記憶とはなんだろう(2)

前回の続き)

震災から一夜明けた土曜日。
相変わらず電話はつながらず、メールも届くのに数時間かかる。ただ、両親や親しい人の無事は、地震発生直後におおよそ確認していたので、あまり心配することはなかった。

何も手につかず、テレビから流れる震災の映像を眺めてすごす。
時間がたつにつれて、被害のすさまじさが明らかになる。昨晩の報道では死者数百人を確認とのことだったが、実際は東日本東岸が壊滅的な打撃を受けていた。

流通網の断絶と買い占めで、商店に並べられている商品は限られていた。
ただ、家にコメがたくさんあったので、とりあえず飢えはしないと思った。

週が明けて3月14日月曜日。
鉄道が動いていたので通勤。こんな時にも仕事に行くサラリーマンの悲しいさが。
ダイヤは大幅に乱れ、駅は人があふれるほど混雑し、通常の3倍くらいの通勤時間がかかった。
出社してみれば、原則定時(8時30分)に出社せよとのおふれ。鬼か!しばらく自宅待機の会社もあるのに...

福島の原発が被災したとのニュースも繰り返し流れていた。
テレビカメラは、突然白煙を上げた原子炉をとらえる。アナウンサーが
「爆発ではないですか?」
と、と隣で解説をしているxx大学の原子力工学の先生に問いかける。すると先生は、
「爆発ではありません、ベントです。圧力を下げるために中の水蒸気を逃がしているのです」
と答えた。

でもそれは爆発だった。
その先生は、自らが作り出した安全神話のファンタジーのなかで生きていたのだろう。

確か3月15日だったと思う。雨が降った。
レインコートを着て、手袋をして、顔にビニール袋をかぶって、ゴーグルをして自転車に乗っている人を見かけた。その時は、大げさな人がいるもんだ、と思った。しかし、その雨に多量の放射性セシウムが含まれていたことを知ったのは、だいぶ後のことだ。

始めの一週間はすべてが混乱していたが、その後は混乱しつつも徐々に元の生活を取り戻し始めた。

コロナ禍を上回る宴会自粛モードで、飲食店の経営が苦しいらしい。それで、わざわざ行きつけのレストランに食事に行った(「できることをする」)。
テレビCMも自粛で、ACジャパンの「ぽぽぽぽーん」というCMばかり流れている。会う人会う人が「ぽぽぽぽーん」と言っていた。

電力不足のため、街灯を間引き点灯していた。ちょっと暗くなったが、これはこれでヨーロッパのようで雰囲気があっていいんじゃないかと思った。
ひっきりなしに余震があり、地震だかめまいだか分からなくなる「地震酔い」というものを経験した。

震災から2週間後、八ヶ岳に登山に行った(「登山を再開~八ヶ岳・南沢大滝」)。こんな時期に登山でもなかろう、という話もあった。でも、自粛モードで観光地も苦しいので行くことにした。
駐車場近くでカモシカを見る。八ヶ岳には何度も来ているが、登山口でカモシカを見るのは初めてだ。

GWに小笠原に旅行する予定だったが、行っても大丈夫だろうか?小笠原に電話し、震災の被害はほとんどないので、ぜひ来てくださいと言われ、ほっとする。

鉄道が復旧したので、実家に帰省した。
実家のある辺りは、震度5くらいであまり被害はないと思っていた。しかし違っていた。
液状化で、駅前広場は波打ち、マンホールは地面から1m以上飛び出し、空き地には火山のような砂が噴き出した丘がいくつもできていた。
実家の近所には傾いた家がいくつもあったが、運よく実家の家自体には被害はなかった。
震災当日の夜、会社から家に帰れなくなった父は、行きつけの飲み屋で一晩中飲んでいたそうだ。父らしい...父には父の震災の記憶がある。

4月11日の日比谷公園

4月11日の日比谷公園。例年とかわりなくお花見を楽しむ人々。一方で、海外では原発事故が大きく報道され、大使館員の東京からの退避や、日本への航空便の停止などが行われていた。

4月11日福島のアンテナショップ

八重洲の福島県のアンテナショップには、被災地を応援しようと、店内に入りきれないほどの人が訪れた。私も日本酒(真実)と豆腐の味噌漬けを買った。

次回に続く)

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