被災地を撮ることの意味~ボランティアと写真撮影(1)

6月に岩手で震災復興ボランティアに参加したとき(「災害ボランティア参加」)、スタッフの方々から陸前高田市、大船渡市をはじめとする被災地は、撮影禁止と念を押された。それで当時の私のブログには被災地の写真がない。

ボランティアの参加者からは、写真を撮らなければ帰って周りの人に伝えることができない、との声が多く聞こえた。正直、私もブログに書きたいのに~、などと思っていた。

しかし、なんどかボランティアに参加し、被災地の様子を目の当たりにし、現場の方々の話を聞いて、今は自分なりに納得することができた。ただ、納得するまでボランティアと写真撮影について深く考えさせられた。

考えるべき問いは2つある。

1つ目はボランティアは何者かという根本的な問い。

震災復興ボランティアってなんだろう?被災地に行ってガレキを片付けること?被災した方々に物資を届けること?確かに外面的に見ればそのとおりだと思う。しかし、そのような物理的な支援が私達、素人ボランティアの一番の役割、目的でない。おそらく。

私達が人海戦術で寄ってたかってガレキを片付けたところで、後でショベルカーやダンプなどの重機が入れば、あっという間に片付いて更地になってしまう。実際にボランティアがガレキを片付けてきれいにしたところを、その後、重機で更地にしてしまうことは多いらしい。つまり、何日もかけて大勢の人たちが泥だらけになってやったことが、見た目には全くムダになる。

では、何のためにやっているのだろうか?

私が参加している「まごころネット」では、代表がよく「被災した方々のお手伝いをさせて頂いている」、「我々は被災した方々に寄り添う」とおっしゃっている。ボランティアの一番の目的は物理的な支援ではなくて、被災した方々に寄り添い、助けを必要としていることがあればそっと手を貸し、ひとりじゃないと心情的に支えることなんだと思う。そして、困っている人を支えることにより、ボランティア自身も心に何かを得る。

先にも書いたとおり(「釜石市へ」)、箱崎のガレキ撤去隊の隊長も、「形だけみれば我々のやっていることはムダになるように思える、しかし、今、この時に被災した方々は自分の家を片付けて欲しいと思っている。だから、今、この時に被災した方々の思いに応え、安心して頂きたいというのが我々の思いだ。我々は行政よりも被災した方々の近くにいるのだ。」と語っていた。

つまり、ガレキ撤去という物理的な作業をしていても、それは被災した方々の気持を支える役割が大きい。

またさらに、この役割を果たすために「信用」が重要になる。

被災した方々に寄り添い、お手伝いするには信用と信頼が必要だ。どこの誰だか分からない人にそばにいられても落ち着かないし、自分の家の中に入って片付けてもらうのも抵抗があるだろう。さらに震災直後に火事場泥棒や詐欺にあった方もおられ、被災した方々は外部から来た人たちを警戒していた。

そのために、ある地域でボランティアを始めた人たちは、最初は黙々と真面目に来る日も来る日も側溝のヘドロ出しを続け、その姿を見てもらうことによって、地域の人たちの信用を徐々に得たと聞いた。

こういった積み重ねの上に今の活動がある。

ここで撮影の話に戻る。

津波に襲われた直後の被災地を撮ることを、被災した方々は望んだだろうか?答えは「NO」である。

立場を変えてみれば分かる。想像して欲しい。あなたがが生まれ育った家が津波によって押しつぶされ、真っ黒なヘドロに覆われている。その周りには家族の写真や思い出の品が散らばっている。そして、その大切な家族はもういない…。こんな状況で、被災していない、震災前と全く同じ暮らしをしている人たちがどやどやとやって来て、もの珍しそうにあなたの家の写真をパチパチと撮りだしたら、あなたはどう思うだろう?見世物じゃない!と叫ぶのではないだろうか?

ボランティアは被災した方々の望まないことはできない、いや、しない。望まないことをするのは、被災した方々に寄り添うという本来の目的に反する。そして誰かがしてしまえば、それまで多くのボランティア達がコツコツと築いてきた信頼をぶち壊してしまう。

撮影は多くの被災した方々が望まず、それは当然、ボランティアはすべきではないのだ。

長くなったので、2つ目の問いは次回に続く。

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