唐桑で牡蠣漁師~神奈川災害ボランティア(2)
1/21 気仙沼~唐桑半島~気仙沼~横浜
(前回の続き)
この記事には被災地の写真が掲載されています。ボランティアによる被災地の写真撮影は、被災した方々の心情を考慮して原則として禁止されています。しかし、被災地やボランティアの様子を伝えるために許可を得て撮影しました。被災地は今なお復興の途上であり、たくさんの人々が頑張っていることを心に留めておいて下さい。
まだ真っ暗な早朝5時半、道の駅かわさきで起床の声がかかる。ここでボランティア装備に身を包み、朝食をとる。小雪が舞っているが、それほど寒くはない。よかった。
道の駅かわさきから、バスはまず気仙沼のボランティアセンターに向かい、そこで気仙沼チームを下ろす。我々はさらに先を目指す。気仙沼の市街地をバスが海に向けて進むにつれて、傾いた道路標識や一階がガレキに埋もれて廃墟のようになった建物が増えてくる。そして、突然街が終わり、土台だけになった家々、地面に横たわる船、そしてその向こうに海が見えた。こんな景色が三陸海岸数百キロに沿って点在しているのだ。
今日はここで、復活にかける牡蠣の養殖のお手伝いをする。
ホタテ山盛りのテーブルを囲み、ボランティア仲間とおかあちゃん達とせっせとホタテの貝殻をロープに固定して行く。おかあちゃんたちは、震災当日の話からAKB48が来たときの話まで、明るく話してくれる。それに引きかえ、ボランティアたちはホタテに悪戦苦闘、無口になりがち…
地震のあったそのとき、漁師のおとおちゃんは船で漁に出ていて、そのまま船で沖に逃れ助かったそうだ。おかあちゃんは、今日と同じように海の上の小屋で作業をしていた。揺れを感じてあわてて家に戻り、じいちゃんとばあちゃんを家から引っ張り出して、着の身着のまま、作業用のゴムのつなぎを着たまま高台に上がり、ぎりぎりのところで難を逃れたそうだ。おかあちゃんはその作業着のまま20日間すごし、そして5ヶ月避難所ですごし、やっと仮設住宅に入れたそうだ。支援はいつも後手後手に回り、そして不十分だ。
海をのぞきこむと真っ暗で何も見えないが、ぶら下がっているホタテのロープを目で追っていくと水の透明度がかなり高いことが分かる。深く緑色に澄んだ三陸の海。大きくなれよ!とロープを沈めてゆく。
ただ、今は出荷できない。海から目を上げると、港には津波で崩れ落ちた水産加工場が見えた。
午後もひたすらホタテ貝をロープに固定し続けたが、やっぱりボランティアは山男山ガール比率が高くて、丹沢の話(みんな神奈川在住だから)など盛り上がり楽しく作業できた。
2時半に作業終了。おかあちゃんから最後にご挨拶があって、
「家も海も失ったけど、たくさんの人が応援してくれるから一歩一歩頑張れる。」
と言葉を詰らせながら言ってくれた。よかった。この言葉で今日の自分の使命が100%果たせた。私の周りに、「復興なんて金を出せばいいんだろ~」なんて言う人達がちらほら見受けられるが、その人達にはこの言葉の重みはわからないんだろうな…
これから夜行バスで横浜に戻るが、その前に「かんぽの宿一関」でひと風呂浴びる。加水ろ過循環されている弱アルカリ性泉は泉質はイマイチ。でも充実した作業の後のひと風呂は格別。
今回のような漁師の仕事という、金銭目的の仕事の手伝いをボランティアがすることに異を唱える人もいるらしい。しかし、唐桑では復興のための協同組合として牡蠣の養殖を始めているそうだし、だいたい、漁師だって農家だって、働き手を失って人手不足、物不足、資金不足の中、生業を復興しなければ、地域や社会の復興はありえない。その呼び水としてボランティアがお手伝いすることには大きな意義があると思う。
赤星山もおといこさんも地元で親しまれている山のようですね。調べてみたら行ってみた…